風の通りすぎる場所@あおいベーカリー

自家製酵母のパン工房「風の通りすぎる場所@あおいベーカリー」に関するお知らせと、何気ない日常を綴っています。

海獣の子供

 『海獣の子供』というアニメ映画を観に行った。
 なぜこの映画にたどり着いたかというと、日曜劇場のドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主題歌になっている米津玄師さんの「馬と鹿」という曲がかっこいいなぁ~と思って検索していたら、9月に発売になるその曲のCDに「海の幽霊」という曲がカップリングされていて、その曲はどんな曲なのだろう?と検索してみたら『海獣の子供』というアニメーションの主題曲で、曲のPVがアニメを編集したものになっていて曲と相まって美しく、このアニメ見てみたい!まだやっているのかな?と映画の方のHPを見てみたらHPの作りもものすごく美しくて、上映館を調べてみたら、かろうじて小山(栃木県小山市)の映画館でやっていたのでこれは見に行かなければ!という気持ちになって見に行った、という、ちょっと長い経路と絶妙のタイミングでたどり着いたのだった。


 そのアニメーション『海獣の子供』は、画と音楽と背景の音が五感全体に響いてきて、すべてが圧倒される美しさだった。
 話の筋がやや抽象的なので、好き嫌いが分かれるかもしれないけれど、生命の誕生の物語とか、生きている意味や自分が何者なのかという問いに対する答えが、海や宇宙や夕焼けの色や、魚の群れや星空や水中の浮遊感を背景にしつつ、登場人物の言葉の端々から紡ぎだされていく。
 最後のところで、死(一つの終わり)から生(命の誕生)へと繋ぐものが「海の幽霊」という曲なのだけれど、その曲を聞きながら、母の散骨の風景を思い出した。
 船で沖合に出て、母が好きだった曲をかけ、花と遺骨を海に投げる。花は波間に浮かんで流れていくのに、遺骨は海にすう~っと沈んであっけなく消えていく。それを見ていたら、人は地球に生まれて地球に帰っていくのだなぁと思った。
 子供の頃に経験した、海の記憶。
 よく見に行った水族館。
 標高1000m以上の場所で見た、星が降るような夜空。
 虹色の冬の夕焼け。
 それらの思い出の切れ端は、私の中で消えることはないだろう。


 母の散骨が終わったあとで、スタッフの方からちょっと不思議な話を聞いた。散骨をするのに遺骨を細かくしてもらうために散骨会社のスタッフの方に遺骨を取りに来てもらったのだが、遺骨を受け取って会社に帰るまでの間に、母と同姓同名の人から散骨に関する問い合わせの電話があったというのだ。
 気になって、その方はどこの人でしたか?と聞いてみたら、なんと母の実母の出身県の人だった。
 偶然以上の偶然って、あるのかな?

 人は、誰かの記憶をもらって生まれてくるのだろうか?
 時に、この人と昔いっしょにいたことがある・・・ような気がする人に会ったことが、何度かある。
 母は晩年、街角の姓名占いで占ってもらったら、母と私の字画は前世で夫婦の組み合わせだと言われたことが嬉しかったらしく、何度かその話を私にしてきた。
 それを聞かされるたびに私は、「え~、それはないよー!」と否定したのだが、母が亡くなったあと、棺に入れるものを見繕うためによく使っていた手さげの中を見てみたら、その占いをしてもらった時のものと思われる、母と私の名前の脇に字画が書かれた紙が折りたたまれたものが手さげのポケットの中から出てきた。
 そんなに信じて、そのことを心の支えにしてきたのかと、少しよれよれになったその紙切れを見たら泣けてきた。
 そして、私は、母が自分の名前を忘れないようにと、その紙を棺に納めた。
 「海の幽霊」が流れる場面の中で、“大切なことは 言葉にならない”という歌詞が、その時の風景と共に、心に響いた。

 葬儀の日から1年3か月、母の遺骨を持ち続けたあと、散骨をした。散骨の船の上から、波にのまれて見る間に消えていく母の遺骨を見ながら心の中でそっと呟いた。

 さよなら
 ありがとう