風の通りすぎる場所@あおいベーカリー

自家製酵母のパン工房「風の通りすぎる場所@あおいベーカリー」に関するお知らせと、何気ない日常を綴っています。

9年目の3.11

 2011年の3月11日。
 私は福島県の奥会津に住んでいた。
 そして、その年の年末、実家のある真岡に引っ越しをした。
 きっかけは震災ではなかったのだけれど、その年の4月までにいろいろなことがあって、今まで

 ここで何かをしたい

と思っていたことが、

 もうこの場所じゃなくてもいい

と思うようになり、13年半暮らした会津を後にした。
 引っ越すことに躊躇はなく、

 もう会津で経験すべきことを全部やり終えて、ここを卒業するんだ

という気持ちになっていた。
 実際には、会津にいた間に畑を借りてブルーベリーを植えて育て、ひょんなことからそのブルーベリーの実で酵母を起こしてパンを作ってみたところ発酵にはまり、パン屋になる!と決意して、それから人にお金を出して買ってもらえるようなパンを作れるようになろうと、パンを作り続けていた。
 その間に、町で行ったいわゆる地域おこし系のプロジェクトに参加したりして、今まで興味のなかったことを学んだり、自分からは絶対やろうとしないだろう活動に加わったりもした。
 それは、会津に住んでいたからこそ経験できたことだ。たとえば東京や真岡に住んでいたら、自分の人生の中で交わることのない交差点だったに違いない。

 機が熟す

生きている中で、そういう瞬間が確かにある。


 そんな中で起こった、東日本大震災。
 あの日、フクシマにいたことは、自分にとって とても大切な出来事だったのだと思う。
 その頃、会津でパン屋を始める前の予行演習的にカフェらしきことをやっていたので、県内で原発事故が起こったあと、浜通りから会津に避難してきた人に会う機会もよくあった。
 すぐ目の前で原発事故が起こったようなあの不穏な空気は、今でも忘れられない。
 もともと電気はあまり使いたくないと思っていたのだけれど、そのことをあらためて心に刻んだ。


 話は少しそれるけれど、自分がなぜ電気を使いたくないと思っているのか、という原点を思い返してみると、子供の頃よく母が、

 電気がもったいない

と、必要のない場所についている明かりを消していたのを記憶しているからのような気がする。
 それからもう一つ、8月の終戦記念日が近づいた頃、父と母はよく私や妹に、戦争中の出来事を話してくれた。
 母は、親元を離れて飛行機工場に行き、そこで戦闘機が来て警報が鳴って暗闇の中を防空壕に逃げたことが怖かったと、よく話した。
 父は、学生で名古屋にいたのだけれど、終戦になって真岡の実家に戻るときの列車の中で、広島から来たというおじさんがとなりの人と話しているのを聞いたという話ををよくした。おじさんは、大きな爆弾がヒロシマに落ちて、町中には人がたくさん死んでいて、その中を歩いて通ってきた、と話していたらしい。
 父はその話の最後に必ず、あのおじさん、もう死んじゃっただろうなぁ・・・と、ぽつんと言った。
 原発事故のニュースを聞いたとき、私は、子供の頃何度も聞かされたその話を思い出した。
 原発が爆発した、と流れるニュースを何度も聞いているうちに、そのニュースは本当は、原爆が落とされて戦争が始まった、という事実を原発事故に言い換えて伝えているのではないだろうか?と疑ったりもした。
 東日本大震災を振り返るニュースには、たいてい津波で何万人もの命が奪われたことばかりが取り上げられている気がするのだけれど、本当に伝えるべきことはそこではないのでは?と思う。
 ちなみに、震災の後、原発に代わる自然エネルギーや電気販売の自由化で、「電気料が安くなります」という営業の電話がかかってくることが増えた。
 でも、今まで、電気の使用量を格段に抑えた商品です、という宣伝の文句を聞いたことがない。やるべきことは、そういうことなのではないだろうか?
 

 震災から、原発事故から、9年。
 自分にできることは、小さなことでしかない。
 でも、一人一人の積み重ねが、大きな力になっていく。 
 電気をなるべく使わない。
 そのことはこれからもきっと、自分のライフスタイルとして貫くだろう。
 というわけで、今年の夏もエアコンは使わず、工房内は暑いです。
 ご了承くださいませ~m(_ _)m