風の通りすぎる場所@あおいベーカリー

自家製酵母のパン工房「風の通りすぎる場所@あおいベーカリー」に関するお知らせと、何気ない日常を綴っています。

9月の新緑

 夏の間に毛虫に食べられ、丸坊主になってしまったマユミの木に、今頃になって新芽が出た。
 秋の日射しの中、それがまるで、新緑のように初々しく見える。



 毎年こんな調子なので、木はさっぱり成長せず、ついに今年は枯れちゃったか・・・と思っていたら、残暑のあとに新芽が伸びて、息を吹き返したらしい。


 不謹慎だとは思うのだが、時々、愛する人に先立たれて一人で暮らしていくことと、最初から誰ともパートナーとなれずに一人で暮らし続けていくことと、どちらの方が淋しくないだろう?と考えてしまうことがある。
 比べられるものではないけれど、どこかで諦めの境地に立てれば(?)、初めから一人・・・のほうが、淋しくならないかな。。。
 愛された記憶と愛した記憶。そのどちらも持てていたなら、失った後の悲しみは計り知れないもののような気がする。

 今日の朝日新聞の「折々のことば」にあった、
 
 自分のことより相手のことを先に思いやること。そして自身は痛い思いをしてもなお、その人の思いを支えたいと願うこと。愛されたいと思うよりそれが先なのでは?愛とは、もらうものでなく贈るもの。

という一文が、何だか心に響いた。
 嫉妬心などにとらわれて、高ぶった感情をぶつけてしまったあと、ふと、相手にとってはそのことが楽しかったのに、なぜ自分はそれを怒っているのだろう?と冷静に考えてみると(たとえば、飲んで帰ってきた旦那さんに、こんな遅くまで何してたのよ!みたいな場面ですね)、愛する人が楽しかったことを一緒に喜べていない自分をそこに見つけてしまう。
 彼が楽しい時間を過ごしたことに、なぜ自分は腹を立てているんだろう?と。
 そして、自分が「愛される」ことだけを考えているということに、ハッと気づくのだ。

 愛とは、もらうものではなく贈るもの。
 許すとか見守るとか信じるとか・・・。大きな愛を贈りあえることができたなら、何度でも初々しい新緑の葉が出て、いつまでも生き続ける愛を育てることができるのかな・・・。