呼吸のリズムが、少しずつずれていく。
息を吐いた後の、「吸う」はずの音が途切れがちになる。忘れていたものを思い出すようにまた吸うと、微妙なずれを置いて息を吐く。しばらく前からそんな風に、母の呼吸のリズムは一定ではなくなっていた。
吐いたから次は、「吸う」のはずだ。
けれども、なかなか「吸う」の音がしてこない。なんだかもう、次の「吸う」はいくら待っても来そうにない気がした。
思わず付添い用のベッドから身を起こして、病院のベッドに横たわる母の脇に立つと、看護婦さんがあわててドアを開けて入ってきた。心電図がどうのこうのと言って、
妹さんは?
と私に聞いた。
前日の朝7時ごろに病状が急変して連絡をもらってからずっと、妹と二人で付き添っていたのだが、夜中になって妹は一時自宅に帰っていたのだった。
妹さんに 急いできてもらってください
というので、ケータイを取り出して電話しようとしたのだが、何だか腰が抜けたようになってすわりこみ、そうだ、ここでケータイを使ってはいけないのでは…と思い至って病室を出ようとしたら、
ここで電話して いいですよ
と言われた。
家に帰ってとりあえずお風呂に入っていた妹にすぐに来るように言うと、一時病室を離れていた看護婦さんが戻ってきて、
先生は 今
急患を診ているので
そちらが済んだら 来ます
と言ったあと
延命措置は しなくていいですか?
と、私に確認した。
母が入院する時点で、いつ病状が急変するかわからないという状態にまでになっていたため、もしもの時には延命措置をするかしないか、ということを聞かれていたのだが、私と妹の意志は、何もしないでいいという答えだった。なので、あらためて、
何もしなくていいです
と伝えると、看護婦さんはまた、部屋を出ていった。
どのくらいの時間が経ったのだろう?先生が来るまで随分かかったような気がしたが、看護婦さんと共に来た先生は、瞳孔の反応や脈などを診ると、死因と推定されることを申し述べて腕時計に目をやり、
7月12日午前0時40分
死亡と診断しました
と、神妙に言った。
ありがとうございました・・・
と私がひと言言うと、先生は時間に追われるように病室を出ていく。そして看護婦さんが、
あとの処置をするので お待ちください
帰る時に着せるものは どれですか?
と聞いてきた。
母が入院した後に伯母から、亡くなった時には着せて帰るものがいるのよ…おばあちゃんのときは、病院の浴衣しか着せてあげられなかった、というようなことを教えてもらっていたので、前日の昼間のうちに母のお出かけ用のブラウスとスラックスを持ってきていた。準備しておいたそれを差し出すと、看護婦さんはちょっと驚いたようにそれを受け取った。たぶんたいていは、そんなものを用意するなんていうことは気がつかないものなんだろう。というより、ここまで覚悟ができている・・・なんていうことが、ないのかもしれない。
すると看護婦さんが、それまで母がつけていた酸素マスクのスイッチを切り、母の口からマスクを外した。
そうか・・・
もう死んじゃったんだから
酸素マスクは いらないよな
息を引き取る って こういうことなんだ
それを見ながら私は、妙に冷静に考えていた。
タクシーがなかなか来なかったらしく、ようやく妹がやってきたが、母は死亡と診断されて、後の処置をするために看護婦さんが来るのを待つばかりになっている。様子を察知したのか、
え?
おかあくん 死んじゃったの?
やだよ!
目を覚ましてよ!
死んじゃ やだよ!!
妹は、母の肩をゆすって泣き出した。
まるでドラマのワンシーンだ。本当に、こんな風になるんだ。と、私はまだ客観的にその光景を見ながら、
ごめんね 間に合わなかった
というと、妹は、
そんなことないよ
なんで 帰っちゃったんだろう
私が 悪いんだよ
と言う。
そして、病院を退院するために、病室にあるものをカバンに入れようとする私に、
なんでそんなことするの?
まだ そんなことしなくてもいいよ!
と、怒ったように言うのだった。
看護婦さんが再び来てくれるまでにも時間がかかり、その間に妹も落ち着いたらしく、荷物をカバンに詰めて帰る支度をした。
そして、母は看護婦さんから帰る準備をしてもらい、葬儀社の車が到着するまでの間に妹は先に家に戻って、家の明かりをつけて、母の帰りを待っていた。
死化粧が終わった母を前に、
帰る時には いつもの出口ではないので
案内します
と看護婦さんに言われ、死んだ人は表の出入り口からは出られないことを知った。
母と私が病室に残り、葬儀社の方が来るまで二人きりになった。看護婦さんが化粧をしてくれた母の顔をふと見ると、左目の下に小さな涙がついている。看護婦さんが拭き忘れたのか、それとも、わずかに残っていたものが母の体からあふれたのか・・・何度見てもやはり、母の目の下には小さなしずくがついていて、私には母が「さよなら・・・」と言っているように見えた。
葬儀社の方がようやく到着して、病室から担架に載せられた母といっしょにエレベーターの入口に向かう。廊下で見送ってくれた、よく顔を合わせていた看護婦さんが、通りすぎる瞬間に「気をつけて・・・」と声をかけてくれた。入院から1か月半、昼と夜の食事時にほぼ毎日病院に来て、最初から最後まで泣くこともなく母の最期を看取った私が、母が亡くなった瞬間に倒れたりしないように、という意味で言ってくれていることがわかったのだが、そこで何か話したら涙が止まらなくなりそうで、「はい」と声にならない言葉だけ言ってうなずくのがせいいっぱいだった。
昼間は猛暑だったのに、真夜中に裏口から病院の外に出ると、少しは冷んやりと、涼しい風が吹いていた。そして、葬儀社の車と共に家に着いて車外に出ると、空には星と月が見えた。
葬儀社のスタッフの方が手際よく祭壇を作って帰ったあと、妹と私と、床の間に寝かされた母と・・・。まるで、別世界にいるようだった。昨日までは食欲がなくなった母のために、小さなおにぎりとままごとみたいなお弁当をつくって、妹と二人で毎日病院に会いに行っていたのに。
葬儀社からは、父の時にお世話になった担当者の方が来てくれて、私たちがしてほしいことをもうわかってもらえていたので、話もすぐに通じた。自分が親のお葬式などできるものなのだろうかと、ぼんやりと考えてみたことはあったけれど、おかげで無事に終えることができた。
そのあとの1か月半、私と妹は、母が亡くなった後のさまざまな手続きや相続に関することをするために、実家で暮らすことになった。母がいなくなると実家は空家になってしまうので、家の片付けなどもある。草が生え放題になってしまった庭の草刈りも、3日連続で早起きして二人で終わらせた。母が頼むつもりでいた家のペンキ塗りも頼んで、きれいに塗りなおしてもらった。
ばたばたと事後処理のようなことが続くなかで、母の葬儀が終わったあとの10日ほど後に、花火大会があった。
子供の頃は、父と一緒に花火大会を見に行ったことがあったけれど、実家を離れたあとにはついぞ行ったことがなかった地元の花火大会。何十年ぶりに妹と行ってみたら、それはそれは賑やかで豪華な花火大会に生まれ変わっていた。
それからすぐに、8月のお盆が来て、灯ろう流しにも本当に久しぶりに二人で行ってみた。
母が亡くなってから、私と妹がいつも暮らす場所に戻るまでの1か月半。カレンダーにやるべきことをほとんど毎日書きこんで、やり残したことがないように、二人して一つ一つ終わらせていった。
この家で、妹と私の二人だけで夏を過ごす。そんなことはきっと、一生に一度きりだろう。
なんだかどこかに、こんな映画がありそうな…そんな気がした。
ストーリーは全く違うけれど、『異人たちの夏』という映画を思い出した。
映画は、亡くなってしまった妻が、再婚した夫の新しい妻に嫉妬してこの世に出てきていたずらをする、という話なのだが、この世から消えてしまった両親と、私と妹と、再びここで4人で暮らしているような、私と妹にとっては、「あの夏」という特別な符号をつけられた、不思議なひと夏だった。
アメリカに住む妹が、航空券の切符を予約していた9月の初めに日本を発ち、その数日後に私も、会津に戻った。母が入院した頃には田植えが終わったばかりの緑色の田んぼが、会津に戻る時にはすっかり、収穫の時を待つ黄金色の田んぼになっていた。
それまでは、じゃあね、また来るね。といって、母に手を振っていた勝手口のドアを、これからは自分で鍵をかけていくことになる。家のドアというドアも、全部鍵を閉めて、ゴミも持ち帰って・・・。
ここから、違う時間が始まるんだなぁと、あらためて思った。そして、ドアを閉めながら、ふと、母が、父が亡くなった後に私に言った言葉を思い出した。
この世に残った人たちが
一生懸命 生きていくことが
いちばんの供養になるんだから・・・
あの夏から、6年。
時々、母のその言葉を思い出しては我が身を振り返る。
私は ちゃんと 生きられているかな・・・?
父や母が あの世で 安心できるくらいに・・・