風の通りすぎる場所@あおいベーカリー

自家製酵母のパン工房「風の通りすぎる場所@あおいベーカリー」に関するお知らせと、何気ない日常を綴っています。

やおよろず

 去年の今頃…お盆の時期にも書いたのだが、うちの両親は散骨にしているため、我が家はお寺との縁が切れ、法事や、あるいはお盆やお彼岸のお墓参りというのも基本的にはない。
 我が家のお墓そのものがないので、法事はなくて当たり前なのだけれど、とはいえ、祖父母のお墓は市内にあるので、(我が家が墓守ではないのだが)お盆やお彼岸のお墓参りくらいはできる限りのところで行っている。
 で、今日は奮発して(?)、お墓掃除をしてきた。春のお彼岸に行きそびれたままになっていたので気になっていたからというのもあるが、何より子供の頃、両親や夏休みに遊びに来たいとこや親戚一同とお墓参りに行った時に、誰も来ないで古びたままになっているお墓を見て、寂しいな・・・と思ったそのことが妙に印象に残り、うちのお墓をそんな風にはしたくないという気持ちがどこかにあるから・・・というところが大きいように思う。
 お盆の時期には特に、祖父が好きだったという秋海棠の花が庭に咲くので、母がそうしていたように幾枝か切り取ってお墓に供えに行く。




 父が「墓は作るな オレは散骨にしてくれ」とことあるごとに私に話したのには、祖父母に始まる先祖代々のお墓にまつわる諸事情がいくつか重なったことと、さらに父自身が宗教というものを敬遠していたこともあってのことで、子供に面倒をかけたくないという意思の表れであることは明快だったため(加えて言えば、私自身も、誰もお参りする人がいなくなって寂れてしまうようなお墓になるなら、お墓なんていらない、と思っていたので)、父が急逝した時に迷わず散骨にすることに決めた。
 さらに、子供の頃に読んだ『ガリバー旅行記』の「死なない人のいる国」の話が、早いうちに私の死生観を形作ったことも影響している。(興味のある方は、こちら→ 2014.8.14)
 ・・・という話を去年ブログに書いたところ、お客さまの何人かから、散骨について尋ねられた。 自分が亡くなった後に遺骨をどうしてほしいか、ということを、この時期は思いめぐらせる時期でもあるのだろう。

 20代の頃には、鎌倉のお寺巡りとかが好きでよく行っていたのだが、会津に引越してからは、いつしか神社によく行くようになった。
 なぜかな?と考えてみたところ、父が散骨の話をするようになった頃から、お寺はどこか人間臭い・・・と違和感を感じるようになったからかもしれない。それに加えて、会津に住んでから、八百万(やおよろず)の神様がいるということを感じるようになったことも大きい気がする。
 私が13年半暮らした奥会津福島県には、豊かで雄大な自然があちこちに残り、四季折々に様々な美しい景色を見ることができた。その中で暮らしているうちに、

 ここには
 山の神様や 風の神様や 土の神様や 木の神様や
 虫の神様や 草の神様や・・・
 八百万の神様が たくさんいる!

と感じるようになった。というより、

 日本人が昔から信仰していた
 『古事記』に出てくるような八百万の神様って
 本当にいるんだ

と、「わかる」ようになった。
 でもそれは、宗教を信仰するというような信仰ではなくて、人間のすぐ隣にいて恵みをもたらしてくれたり、人を笑顔にしてくれたり、心地よくしてくれたり、心を浄めてくれたりする「人の意識を超えた存在」が自然の中にあって、それに対して感謝の念を持つ、ということだった。
 会津の神社でたまたま宮司さんと話をする機会があった時には、ここは何百年前は洪水の多い地形で…みたいなその地にまつわる話を、さも自分が見てきたことのように生き生きと話して聞かせてくれたのが印象的だった。
 神社はその土地の悪いものを封じ込めるために建ててあるので、場所を移してはいけない。という話も聞いたことがある。

 その一方で、実家で眠っていた日本人形の魂抜きをしてもらうために神社にいき、準備が整うまでに待っている時に、宮司さんが商品開発の営業の人と「今度おみやげ品に、○○を作りたいと思っている」という、至極現実的な話をしているのを耳にしてしまい、

 神社も 経営しないといけないからな〜
 こういう 地道な営業努力しているんだ

という出来事に遭遇したこともあったりするのだが(笑)
 ちなみに、主にお寺で行う「人形供養」は、人と同じように人形を葬ることなのだけれど、神社で行う人形の魂抜きというのは、人形はもともと「ひとがた」という、人間の穢れや罪を身代りになって受けてくれるものだったため、人形が背負った穢れや罪を払って魂を神様の元に返すことで、人形をただの「モノ」にするということなのだそう。魂を抜いて「モノ」になった人形は、もう燃やしてもかまわない、というのが神社で行うところの「人形の魂抜き」ということだと、その時に教えてもらった。
 現実的な営業努力とか、神社にだってやはり人間臭いところは大いにあるので、何がいいとか悪いという話ではないのだけれど。 
 
 「生」と「死」と。
 自分の生き方を決めることはできるけれど、自分の死に方を決めることはできない。生きていくその最後に、「死」があるということだけが確かなことだ。
 神社には、何物にもとらわれずに大らかに生きている八百万の神様が、悩める人間が心穏やかに生きていけるような手助けをするために、出動する時を待っている気がする。
 参拝殿に向かうと、その正面に、三種の神器の鏡が置いてある。それは、神様と人間が交信するための入口であると同時に、自分自身をあらためて見つめ直すための道具でもあるのだろう。
 私が薄汚れてしまいがちな自分を浄めてもらうために時々神社に足を運びたくなるのは、八百万の神様が集うその場所に惹かれているからなのかもしれない。